絵とか文のBL2次創作サイト(純エゴ、トリチア、バクステの話が多いです)
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あの夜以来、俺たちは顔を合わせていなかった。
頭を冷やすと言って踵を返した野分が、その後どこへ行ったのかは知らない。ただ俺は、ベッドの中で野分がドアを開けて帰ってきた音を聞いたから、部屋に帰ってきてはいたようだ。その音を聞きながら、俺は布団の中で息を潜めていた。野分がもし俺の部屋に入ってきたら。そんな期待をしなかったと言えば嘘になる。かちゃ、とドアノブを回す音が聞こえた時、俺の心臓は縮み上がった。俺はどんな顔で野分に会えばいいのだろう。野分は俺にどんな言葉をかけるだろう。野分が俺に触れてくれたら今日の出来事は帳消しになってくれるだろうか。でも俺の心中を一蹴するかのように、ドアが閉まる音と遠ざかる足音が聞こえた。
翌朝、野分の姿はすでになかった。カレンダーを見て、これから大晦日まで連勤が続くという野分の言葉を思い出した。
「世間は今から本番か……」
俺たちのクリスマスは終わり、しかも最悪のバッドエンドで幕を降ろしたが、新聞広告を見ればクリスマス商戦ラストスパートといった様相だ。クリスマスイブにはヤドリギの下でキス。一晩明ければジンジャーマンを飾ったツリーの下に抱えきれないくらいのプレゼント。窓を開けると見事なホワイトクリスマスで、雪だるまを作りながらプロポーズ……。思考が正しく機能していないので頭の中では実にメルヘンなクリスマスが展開してしまったが、我が身を振り返ればキスをしてくれるサンタクロースすらいない現実だ。かと言ってベツレヘムの馬小屋で生まれたかの聖人の誕生を祝うような敬虔さも持ち合わせていないわけで。
「あーあ、馬鹿か俺は」
コーヒーを一気に流し込むと出掛ける支度をした。部屋を出る前に鏡を見て表情を引き締める。大丈夫、どうってことない。野分がいなかったことなんて、今まで何度もあったじゃないか。そう自分に言い聞かせた。今からへこんでいたら、忙しい年末まで身がもたない。無邪気なクリスマスソングが胸をちくちくと刺す街を抜けて、俺は通常運転の顔を作り大学へと向かった。
「上條~、今年はどのケーキにする?」
おはようございます、と言い切らないうちに宮城教授がキャスターつきの椅子で滑走してきた。その手に握られているのはクリスマスケーキのカタログだ。
「……何が悲しくて毎年教授と二人でケーキ食べないといけないんですか」
いいじゃないかと言いながら教授は俺にカタログを押しつけてきた。
「ほら、今年も二人で慎ましくクリスマスやろうぜー?」
「『今年も』って去年は別に教授とはいっしょじゃないですよ」
「まぁ去年はな。でも一昨年はなー、アレだもんな~」
「うっ……」
ニヤニヤと笑う教授へ、俺は言葉を詰まらせた。確かに毎年のようにクリスマスは野分といるのだが、それは野分が日本にいる年に限り、だ。野分がアメリカへ留学していた年、やっぱりこんな風に教授と研究室で寂し過ぎるクリスマスを過ごしたのだった。教授も当時はちゃんと奥さんがいたはずなのだが、仕事がたまっているのに加え、別にイブをいっしょにいようとかいう夫婦じゃないからといって、ここで二人で飲んでいたのだ。
「……アレはちょっと思い出したくもない感じですね」
「……ああ、お互いにな」
教授が購買から小さなケーキを買ってきて、クリスマスしようぜクリスマス~、と言ってきたところまではまあ付き合ってもいいかと思えた。帰ったところで待ち合わせをするような奴はいないのだ。だけどこのオッサンは、こともあろうか研究室に酒を持ち込んだ。
『ちょっ、教授!学部長とかに見つかったらどうするんですか!』
『こんな日にこんな場末の研究室見に来る奴なんかいないって!』
それに、と教授は俺の眉間をぐりぐりしながらこう言ったのだ。
『お前も飲まなきゃやってられないって顔してるぜ?』
野分とのあれこれを教授に話したことはない。特に、野分が俺に何も告げずに留学してしまっただなんて話をしても女々しいばかりだ。だけど内心は野分が近くにいるときよりももっとあいつのことばかり考えていた気がする。まるでそれを悟られたみたいで気恥ずかしくなった俺は、教授の手から酒を取り上げて一気にあおった。やるなあ上條、の声とともにいい年した大人二人の見るに堪えない聖夜が始まったのだった。酒は飲み散らかすわ、部屋はもともと樹海だわで、とにかく研究室は深夜にはヒドイ有様になっていた。
ベロベロになった俺は教授の手によってタクシーに押し込まれて家まで帰され、翌朝ずきずきする頭を抱えながら研究室に行けば、こぼした酒でベタベタになった床が俺たちを待ち構えていた。いい大人が情けないと言い合いながら床を雑巾でふいていたが、あまりにアホらしくて落ち込まずに済んだような気がする。あれはあれで気が紛れてよかったのかもしれない。少なくとも今日みたいに視界に入る全てのきらめきが憎いという気分にはならなかった。
「今年は酒抜きで乙女ちっくなクリスマスでもやるか?」
「っつーか、何で今年も教授と過ごすこと前提なんですか」
「だってお前の顔、これから素敵なクリスマスの予定があるっていう人間の顔じゃないぞ」
鋭過ぎる指摘に再び俺は硬直した。野分絡みの話題ではどうしてもこの人には弱い。
「俺のことは気にしなくていいです」
ほんとかー?とニヤつく教授を軽く睨みながら、こちらの切り札を取り出した。
「それより、あの子の方はいいんですか」
今度は教授がうろたえる番だ。百歩譲って俺が教授と過ごすことになったとしても、あの子がそれを見過ごすだろうか。教授の度重なるセクハラのせいで彼は俺たちの関係を最悪の方向に誤解しているようだが、これ以上誤解を積み重ねられてはたまらない。
「あー、忍チン、じゃなくて、クリスマスはだなー……。向こうからは何も言ってこないんだが、雰囲気や目つきからただならぬ期待とプレッシャーを……。って何言わせるんだ!」
「教授が勝手にのろけてるだけです」
俺の突っ込みも耳に入っていない様子の教授は、ぶつぶつと独り言を続けた。それを見て俺はため息をつく。この様子ならば、教授はクリスマス当日になるといそいそとあの子を迎えに行くことだろう。それでいい。また研究室に突撃されてはかなわない。
教授の元奥さんを知っている身としては若干複雑な気分だが、あの子があらわれてから教授はずいぶんと変わったような気がする。あっさり離婚してしまったことからもわかるけれど、もともと結婚だってドライな縁談だったのだろう。それでも夫婦としては違和感はなかったし、教授自身が色恋にさめた人なんだろうと思っていた。研究が恋人、ってやつだ。人の心の機微もわかるし、おちゃらけているようにも見えるけれど、そういったことから一歩線を引いて生きている人だと見てきた。だからその分、好きな奴の行動に一喜一憂している自分が子供っぽく見えて、この人にはあまり自分のことを知られたくないとも思っていた。彼から見れば、恋に振り回される俺なんて滑稽に見えることだろう。
だけど俺たちの留学云々の修羅場に遭遇しても、教授は俺のことを笑わなかった。たぶん、普通に心配してくれていたと思う。
そこまではいいけれど、今度は教授自身が犯罪スレスレの恋愛に振り回される日がきたという。なんたるオチ!しかも教授たちの場合、右も左も多難という茨道だ。十七の年の差、姉は元ヨメ、父は直接の上司、何より男同士。(これはまあ俺たちも他人のことは言えないが。)でも教授の困った顔、必死な顔、でれでれした顔を見てしまえば、せいぜい捕まらないようにしてください、と茶化すのが関の山で。
「教授、俺は何も言いませんから早く帰ってあげてください」
これ以上仲を疑われるのは御免ですから、と言うと教授は頭を抱えた。その様子だとまだ色々言われているのだろう。
「俺も論文抱えててそんなに暇じゃありませんから」
「上條~、ツンツンするのは俺の前だけにして、さっさと仲直りしろよ?」
余計なお世話です、と書類をドンと置くと教授の机の半径一メートル以内で次々と雪崩が起きた。苦笑しつつ資料を拾う教授を手伝いながら、ほとんど独り言のような声でつぶやく。
「……別にケンカしてるわけじゃないです」
クリスマス当日、教授はケーキの箱と本の束のような重量感のあるプレゼントを持って、五時ちょうどに帰っていった。一人きりになった研究室で、わざとらしく伸びをする。
「次は正月、か」
野分と会っていない日を数えてしまうのが嫌で、卓上カレンダーを早々と来年の一月にしてしまうと、まっさらなそれをしばらく眺めていた。
*
「年末年始?一応正月はこっちにいるつもりだけど。……わかった、……わかった、顔は見せるから。……じゃあ、また」
がちゃりと受話器を戻し、誰もいないリビングの方を見た。実家と電話をしている時はなんとなく野分の様子を気にしてしまう癖がまだ抜けていないようだ。たいした話をしていたわけではない。年末には帰ってくるのかどうかとか、その程度の話題だ。正月には帰れとうるさく言われるわけでもない。いい年をした息子だし、さして実家が遠いわけでもないので、とりあえず三が日くらいには顔を見せなさいと言われたくらいだ。
(なんでこっちにいるって言っちまったんだ……?)
こっちで年越しをするといっても別に野分とそう約束をしたわけでもないのだ。とにかくクリスマスの一件からこっち、野分の顔を見ていなかった。病院に詰めっぱなしといっても、数日に一回は家に帰ってきてはいるらしい。俺がいない間に着替えを取りに帰ったり、飯を食ったりしている痕跡が残っている。ただ、俺のいない時間にしか病院を抜けられないのか、わざと俺を避けているのかはわからない。メールは時々くる。
『ご飯用意しておいてくれてありがとうございました。ごちそうさまでした。』
だとか、
『掃除当番なかなかできなくてすみません。今晩は寒くなりそうなので温かくして寝てくださいね。』
だとか、決して音信不通なわけではないのだが、メールの文面を見ても野分の顔がうまく思い浮べられず、一人ため息をつくのだった。文面からは怒ってるようには感じられない。避けられていると思うのはただの俺の被害妄想だろうか。結局俺からの返信も当たり障りのない内容になってしまう。あの日のことが話題になることはなかった。
「って言ってもなぁ」
何をどう言えばいいのだろう?謝る?何て言って?それにまだ聞きたいこともたくさんある。
秋彦と俺のことについて、はあまり野分とは話さない。野分が聞きたいと思っているかどうかもわからないし、野分が秋彦に対してどんな感情を抱いているのか知ることから逃げていたような気もする。だけどそれは今の俺たちにとってもう必要のないことだとも思っている。でも、そう思っているのは俺だけだったとしたら?もうとっくに解決した問題だと思っているのが俺だけだとすれば、野分は何を思って秋彦の申し出を受けたのだろう。わからない。何か思い詰めているのなら、俺にちゃんと言ってくれればいいのに。付き合って何年も経つというのに、野分のことに関してわからないことが多過ぎるのに愕然とする。どんなに考えても自分の心を納得させることはできなかった。
一人悶々考えていても野分へのメールで送るべき適切な文章は何も思い浮かばなかった。向かい合って話をすれば、何かわかるだろうか。野分の思っていることが少しはわかるようになる?一番会いたいとき、会わなくちゃいけない時に限って野分の顔をずっと見ていないという。このまま野分の顔を見ないまま、年を越したくなかった。この部屋にいればいつかは野分は帰ってくるだろう。だって、ここは野分の家なのだから。会って何を話したらいいかはまだ全然わからない。でも一人でぐるぐるメールの文章を考えているよりはずっといいはずだ。何より部屋にこもってケータイと睨み合っているのは健康に悪い気がする。次にいつ野分と会えるだろうか。それまでに俺ができることは……。
「気持ちの整理、とか?」
そうだ、野分と会えたときにまた取り乱してしまわないように。冷静で真摯でいられるように。整理整頓、気持ちも何もかも。
「……部屋も、だな」
野分のメールではないが、俺の方も最近部屋の掃除をさぼり気味だったのに気がついた。よく見ればキャビネットには埃がうっすらつもっているし、キッチンも引っ越した当初よりは汚れが目立つようになっている。部屋がすさむと心まですさむという話を聞いたことがある。
「やるか、大掃除」
そうと決まれば善は急げだ。野分が次この部屋に帰ってくる前に大掃除も正月の準備も全部終わらせて、野分をびっくりさせてやろう。今の事態の解決になるかなんてわからないけれど、何もしないよりはマシな気がする。
俄然やる気になった俺は自分の部屋の本の山にも戦意を挫かれることもなく、年末の大掃除に取り掛かったのだった。
窓拭き、換気扇の掃除、はたきに雑巾がけ、一通りリビングの掃除を終えた。雑巾を絞る手は切りつけられるように冷たいし、空気を入れ替えるために窓を開ければ冬の風が吹き込んでくるけれど、不思議とどれも不快ではなかった。一人で冷たい寒いと騒ぎながら掃除をするのはなかなかに気が紛れるものだった。しかし大掃除といっても、ここへ引っ越してきたときに掃除をしたばかりなので、それほど汚れている場所もなかった。
頭にタオルを巻いて作業スタイルで部屋を見渡せば、どうしても思い出すのは引っ越しのことだ。野分が俺の部屋に越してきた時、それから二人でいっしょに引っ越した時。野分はもともと荷物の少ない奴だったが、骨が折れたのは俺の蔵書の置き場所についてだ。同居前から自分の部屋に入りきらない本たちを野分に預かってもらっていたが、いっしょに暮らし始めてからは更に気やすく頼むようになってしまった。気付けば野分の部屋も、俺の部屋と同じくらいの量の本で埋まってしまった。だから野分のベッドで寝ている時も、周囲が本だらけなので一瞬自分の部屋かと思ってしまうこともよくある。
俺が自分の部屋の片付けをするにあたって考えたことは、野分の部屋にある俺の本も少し何とかするべきなんじゃないか?ということだった。このまま野分の部屋を俺の本に沈めてしまったら、野分に甘え過ぎだろう。俺はケータイを片手にしばし考えを巡らせた。
『今大掃除してるんだけど、お前の部屋テキトーに片付けても大丈夫か?』
俺が野分の部屋に入ったところであいつは怒ったりしなさそうだが、物を片付けるとなればやはり断っておくべきだろう。なんとなく想像がつかないが、野分も触ったら怒られるような物があったりするんだろうか?なんてもっともらしいことを考えているふりをして、内心野分にメールを送るいい口実ができたと喜んでいた。野分の表情に真っ正面からぶつかることのできない俺の弱さがよくわかる。送信ボタンを押す指が震えていたのには我ながら苦笑した。しばらくケータイをジーンズのポケットに入れたまま掃除を続けていたが、あいつがメールを見るのはどうせ昼休憩の時だろうと思い至り、一旦掃除にキリをつけて買い物へ行くことにした。
街の様相はすっかり新年を迎えるカラーリングに塗り変わっていた。心なしか、行き交う人の喧騒もほんの一週間前とは趣が違って聞こえる。とりあえず行きつけのスーパーへ向かい、買い物メモを広げた。
「えーっと、トイレットペーパーに単三電池、と……」
まずは消耗品からだ。もちろん正月の買い物もするつもりだったけれど、締め飾りやらお節やら、一人で考えていても何を買ったらいいかピンとこなかったので、目についたものを買っていけばいいかと家を出たのだ。
(去年はあいつ、何買ってたっけ?)
去年の暮れは野分と二人で買い出しにきたのだが、野分が指図するままに色々買っていたので、イマイチ何が必要だったか覚えていなかった。あの時ちゃんとメモに残しておくべきだったか。かといって、母親に正月に用意するべきものを聞くなどという、新婚家庭の嫁のようなこっぱずかしい真似もできなかった。スーパーまで来れば何を買えばいいか見当がつくだろうと思って来てみたが、食品コーナーをうろつくだけで、どれを手に取ったら良いものか考えあぐねて決まらない。せめて事前にお雑煮の作り方くらい調べておいた方がよかったかもしれない。今日はひとまず正月の買い物はあきらめようかと思った時だった。
ご婦人たちでごった返すスーパーの一角に、高級品のスーツとコートに身を包んだ長身の男が、明らかにこの場所から浮いた空気を醸し出しながら所在なさげにつっ立っていた。
「……秋彦!」
思わずその名前を呼ぶと向こうも気付いたようで、つかつかとこっちへ歩み寄ってきた。歩くたびに周囲の注目を集めることについてはもはや何も言うまい。
「弘樹じゃないか。いつものツレはいっしょじゃないのか」
悪怯れた様子もなくそう言う秋彦の顔を複雑な気持ちで眺める。ここ数日で一番会いたくない人物で、なおかつ一番話を聞きたかった人物だ。
「秋彦こそこんなところで何やってるんだよ」
「ああ、俺も同居人と買い出しに来たんだが買い忘れがあったらしくてな。
ここでおとなしく待ってろと言われた」
「そういえばクリスマス、どうだったんだ?」
「……!!」
とくに探るような素振りを見せる風でもなく、ごくさりげなく秋彦は聞いてきた。自分の脈拍が速くなったのがわかる。
「ん?出掛けてないのか?」
怪訝そうに秋彦が言うのへ、俺は質問には答えず自分が聞きたいことを尋ねた。
「秋彦、一つ教えてほしい」
早鐘を打つ心臓を沈めるように、俺はごくりと喉を鳴らした。
「何であいつをけしかけるような真似したんだ」
冷静に言葉を選んだつもりだったが、少し刺のある言い方になってしまった。
「けしかける?」
相変わらず秋彦はどうして俺がこんな態度なのかわかりかねるという表情をしている。
「……レストランとホテル、お前が予約してたんだろ?」
声のトーンをやや落としてそう尋ねると、秋彦はやっと、ああ、という顔をした。
「まあ、もともと予約してたのは俺だな。」
否定はしない、といった口振りだ。やっぱり、野分はこいつから全部譲られたのだ。野分が俺のために全て用意してくれたんだと喜んでいた自分がバカみたいだ。秋彦に頼るような真似をした野分も野分だし、秋彦は秋彦でクリスマスに浮かれている俺を笑っていたに違いない。俺が雰囲気に流されやすいからおとなしくホテルの部屋に連れ込まれるとでも思われていたのだろう。
「……二人グルになって俺のこと馬鹿にしてたってワケか」
「は?」
「どーせ俺のこと笑って……」
「待て、何の話だ」
「だからテメーとあいつは手を組んで……」
「お前の言っている意味はわからないが、俺が彼にレストランを譲ったのは単なる偶然だ」
「偶然?」
「俺がキャンセルをしようと用事のついでにホテルに立ち寄った時だな……、」
秋彦の話はこうだった。秋彦がキャンセルをしようとホテルに寄ると、たまたま野分がいたそうだ。話を聞けば、クリスマスのためにレストランを予約したいのだが、すでに満席で無理なのだという。それならば、と秋彦は自分のキャンセルする分を譲ろうと申し出ることにしたらしい。
「よく俺たちが都合のいい日に予約してたな」
「俺も相手といつ予定が合うかわからなくてな。とりあえずクリスマスの前後一週間ほどあらかじめキープしておいたんだ」
「前後一週間って、お前は……」
俺が呆れた顔をすると、秋彦は愉快そうに笑った。
「それが同居人にバレてな。無駄遣いするな、クリスマスは家でやるから全部キャンセルしてこいと蹴り出された」
そこへたまたま野分に会った、というわけだ。
「……何だよ…、本当に偶然じゃねえか……」
「だから最初から言っているだろう」
確かに首尾よくレストランを予約できたのは秋彦の常識外れな経済力があったからかもしれない。そこで秋彦に会わなかったら予約も取れなかっただろう。だけど、野分も最初から俺をそこへ連れてきてくれるつもりだったんじゃないか。それだったら秋彦にキャンセルする分を譲ってもらえたのは幸運な偶然として受けとめて、秋彦の名前なんて出さなければいい。
「なんであいつは……」
「彼のことは知らんが、当面の誤解は解けたか」
「うっ……。まぁ、な」
今度は秋彦が呆れる番だった。やれやれ、という目で見られると言葉に詰まってしまう。野分の口から本当のことを聞けずにイラついていたせいもあるが、秋彦相手に少しヒートアップし過ぎたようだ。
「野分にミョーなこと吹き込んで、また名誉毀損本のネタにされるかと思ったんだよ」
「お前はどうしてそんなにヒネくれてるんだ」
「………余計なお世話だ」
「それに言っておくが、いつもお前の方から自主的にネタを提供してくるんだがな」
じゃあまあそういうことだから、と秋彦は連れの姿を見つけたらしくスーパーの外へと出て行った。残された俺はぼんやりとさっきまでのやりとりを反芻していた。
(野分の奴、何を考えてたんだろう)
レジで会計を済ませながら野分の顔を思い浮べた。さっきの秋彦の話で、ちゃんと野分は自分でクリスマスの計画を立てていたことがわかった。そこへ秋彦が絡んできたのは、やっぱり何度も言われたように偶然なのだと思う。ただ、俺とあんな風にクリスマスを過ごしたかった。あの時の野分の台詞も嘘ではないと思われる。それなら俺に、たまたま秋彦がキャンセルしようとした時に会ったのだと説明してくれればいい。あるいは、そのこと自体黙っていてくれてもよかった。あの場面で秋彦の名前を聞かなければ、俺もあそこまで頭に血が上ったりしなかったんじゃないだろうか。野分の方もその名前を口にしたあと、急に態度がよそよそしくなってしまった気がする。そうでなければ俺だって、素直にあとは家で過ごしたいから、くらいのことを言えたかもしれない。
(ま、いきさつがわかったところで今更なんとかなるわけでもないけどな)
結局俺と野分の気持ちがすれ違っていることに変わりはないのだ。冬の風が本格的に身体を冷やし始める前に、スーパーをあとにした。通りを見渡して少しきょろきょろしてみたけれど、秋彦の姿はすでになかった。
*
家に帰り、野分の部屋へ入った。スーパーからの帰り道にメールのチェックをすると、野分から返信があった。特に部屋の中で触られて困るようなものはないのでよろしくお願いします、とのことだった。俺も野分のプライベートな持ち物を引っ掻き回すつもりはないが、一応これで野分の部屋の片付けができるということだ。とりあえず俺の蔵書の整頓から手をつけ始める。本を横積みにしておくと、読むのを楽しみに買った本でも読まずに放置してしまうことが多いので、一目見てわかりやすいように分類別にして棚に並べ直した。野分の部屋の掃除のはずなのに、まるで自分の部屋の部屋のようだ。
(どれだけ野分の部屋に侵食してるんだ、俺は)
やや情けなくなって、他に片付いていない野分の持ち物はないかと探してみた。基本的に几帳面な性格のようで、出しっぱなしの物というのはあまり見つからない。仕方ないので掃除機でもかけるかと部屋を一旦出ようとしたとき、何かに足がぶつかってしまった。バサバサバサ、と本の山が崩れる音がする。あーあ、と思い一冊ずつ拾い上げてみたところ、それはどれも俺の本ではなかった。
「……参考書?」
それは大学受験のための参考書の数々だった。
野分が受験勉強に励んでいたのは、それこそ俺たちが付き合い出した頃だから、まさかこんなものが未だにとってあるとは思わなかった。俺の部屋に越して来た時と、今の部屋に来た時と、二回の引っ越しのどちらでも捨ててこなかったということになる。
(大学の勉強にでも使ったのかな)
参考書の類は体系的にまとまっているから、もしかしたらレポートを書く時にでも使っていたのかもしれない。そう思って何冊か手に取って見てみた。
「えーと、現代文読解対策に古文基本用語集、英作文応用編とわかる漢文百題………?」
見事に文系科目の参考書ばかりだった。てっきり生物だの化学だのの参考書を残してあるものとばかり思っていたので、面食らってしまった。こんなもの医学部に進んだ野分にとって、受験が済んだらいらなくなると思うのだが。意味わかんねー奴、と呟いて野分のベッドにもたれかかろうとすると、突然野分の声が頭の中で再生された。
『ヒロさんの名前が書いてあるのに捨てられません!』
「………えっ……?」
俺の名前が書いてあるから捨てられない、と野分は言ったことがある。あの留学中に書きためた死ぬほど恥ずかしい手紙をめぐっての台詞だ。受験勉強の参考書のうち、残っているのは俺がみてやった科目ばかりだ。ぱらぱらと中身を見れば、野分が問題を解いた跡に加えて、俺の採点や添削の文字が残されている。
俺の書き込みがあるから捨てられない……とか……?
「はは……まさか、ンなこと……」
自分の思いつきの馬鹿馬鹿しさに笑ってみたものの、顔が火照ってくるのを止められない。これらが示すのはただ一つ。
俺は愛されている。
シンプルな一言だったけれど、苦しいくらいに俺の胸を打った。まるで身体を支えていた糸が切れたように、野分のベッドへ仰向けに倒れこんだ。
「何だよ、俺は……」
わからないって何だ、伝わってないって何だ。野分はこんなバカみたいに四六時中俺のことばっかり考えてくれてるっていうのに。一人でスネている俺の方がもっとバカじゃないか。
会いたい。
さっきまでは、少しだけ野分と顔を合わせるのを恐れていた。だけど、今は違った。野分に会って何をどうしたいかなんて、やっぱりまだわからない。でもとにかく無性に野分に会いたくて仕方なくなった。
「……今年中に一回くらいは会えるかな」
気付けば今年も残り一日になっていた。
*
俺が境内に足を踏み入れた時、すでにもう何回目かの除夜の鐘が鳴り始めていた。吐く息は相変わらず白く凍えそうだったけれど、それでもすれ違う人々の表情はどれも楽しそうなものだった。ふ、と白いため息を真冬の空に向けて吐き出してみる。好き好んで寒空の下一人で初詣に来たわけではないが、一秒でも早く野分の顔が見たかった俺の精一杯の提案だった。
『除夜の鐘が鳴り終わる前には解放されそうです』
そんなメールが届いたのは大晦日の昼間だった。
一人で蕎麦をすすりながら返信の文章を考えた。本当は日付が変わってしまう前に病院まで迎えに行ってしまいたい。だけど、とためらう気持ちに水を差され、結局ひらめいたのはこうだ。
『病院から家までの帰り道に神社があるだろ。俺はそこで二年参りしてるから、気が向いたら寄れよ。』
そうメールを返してみた。律儀に近所の神社へ二年参り、などという殊勝な趣味があるわけではないが、まあ不自然ではないだろう。運良く落ち合えたなら、そのまま二人で初詣をして帰ろう。二人並んで除夜の鐘を聞けば、すれ違いも元に戻る、なーんて楽観的なことを考えているわけでもないが、こういう時くらい人事以外の力に頼ってもいいのではないか。
夜出掛ける時まで野分からの返信はなかったけれど、コートを羽織り靴を履く俺の行動に迷いはなかった。
今から俺は野分に会いに行く。
「寒……」
コートにマフラーに手袋に、完全防寒スタイルで来たのだが、空気の冷たさに俺は身をすくませた。周囲を見渡すと、社務所の横で甘酒が振る舞われていた。その場所に人だかりができている。やはり皆あたたかいものが欲しくなるのだろう。もし野分がここへ来たときのことを考えるとあまり人混みの中に入りたくはなかったが、あたたかそうな湯気につられて一杯求めに行った。息はますます白くなったけれど、甘酒を包むように持った両手からぬくもりが広がった。
さて、と腕時計を確認した。本当に除夜の鐘が鳴り終わるまでに野分は帰れるのだろうか。これで野分に会えなかったら本気で俺は馬鹿だなあと思う。だけど不思議と虚しさは感じない。これはあきらめか、それとも何かの希望の予感か。……ただ酔ってるだけなのかもしれないけど。
このままこうして年を越してもいいけれど、と視線を脇にやった。たくさんの絵馬が来年への希望をいっぱいに積み込むように並べられていた。今の俺なら何を願うだろう。泣きながら幸せになりたいと呟いていた時代はとっくに終わったのだ。たぶん、俺が今一番願うべきことは。
絵馬を一つもらい、一気にペンで書ききる。
書いた文字を眺め、迷いのない、なかなか良い字が書けたと頷いた。その下にそっと名前を書く。一応周りから顔が見えないように顔を伏せ、左手で絵馬を少し隠すようにして『草間野分』と書き入れた。なるべく人目につかない隅の方のスペースにそっと吊し、書いた文字が見えないように絵馬を裏返そうとしたその時。
「違うでしょう?ヒロさん」
「……………ッ!!」
やや高い位置から聞こえてくる声。背中ごしに感じる熱。それはまぎれもなく、
「野分!!」
いつもの笑顔で野分が立っていた。俺の手の平に自分のそれを重ねるようにして、野分は絵馬を手に取ろうとした。
「ばかッ、見るなって!」
「これ、ヒロさんが書いてくれたんですよね?」
「……悪いか」
「いえ、すごく嬉しいです。だけどもっと書いてほしいことが」
そう笑うと、野分は待っててくださいと自分も一つ絵馬をもらってきた。そしてさらさらとそこへ文字を書き入れた。ご丁寧に上條弘樹と名前を入れる仕返しつきだ。
「お前は……」
「俺のもヒロさんの隣に飾らせてくださいね」
呆れた俺が突っ込む間もなく、素早く野分は自分の絵馬を吊した。
「マジで……、これはねえよ……」
「でも先に書いたのはヒロさんですよ?」
二つ並んだ絵馬。そこに書かれている言葉は。
『健康第一 草間野分』
『夫婦円満 上條弘樹』
「……っつーか、誰かに見れたらどうすんだコレ!!俺の名前で夫婦円満とか書きやがって!」
「他の人の絵馬なんて見ませんよ、きっと」
それに、と野分は嬉しそうに笑った。
「今日は『誰と誰が夫婦だ!』っていう突っ込みはナシなんですね」
「……うるせー……」
甘酒のせいか、久しぶりに野分の笑顔を見て安心したせいか、それ以上の言葉がうまく出てこなかった。黙って二つの絵馬を裏返すと、百個目の鐘の音が響いた。盛大にではないけれど、あちこちで控えめな歓声が聞こえてくる。
「明けましたね、年」
「明けたな」
「今年もよろしくお願いします」
「……ああ」
ぎこちない新年の挨拶だったけど、これでまた一年野分といっしょにいられるのだと思うと、心からほっとした。二人同時に顔を見合わせたことから、もしかしたら野分も同じことを感じていたのかもしれない。野分が自分の傍にいてくれてよかった。
百八個目の除夜の鐘を聞き終えると、お互い無言で家路についた。そのまましばらく黙って歩き続けたけど、俺は意を決して口を開いた。
たぶん、言うなら今しかない気がする。
「この前は悪かった」
「………」
「勝手に勘違いして、つまんねーことでキレて……。お前が色々計画してくれてたんだろ?別にいいじゃねーか、それがもともと誰のものだったか なんて」
「……ヒロさんは何にも悪くないです」
絞りだすような声だった。やはり俺の言葉は野分を苦しめていたんだとわかり、それ以上何を言えばいいのかわからなくなる。
「本当はあの申し出を断った方がよかったんです。あんなすごいレストランが予約できなかったからって、ヒロさんは優しいから怒ったりなんてしないし。きっと、以前の俺なら断ってました」
「じゃあ何で……」
「たぶん、俺が宇佐見さんのことを必要以上に意識しているからです。宇佐見さんに対するコンプレックスがあるから申し出をはねのけるような子供っぽい真似はやめようって。笑顔でお礼を言って受け取れる余裕が欲しくって。……どっちにしろ馬鹿ですよね。」
今だってこんなに意識してるのに、と野分は自嘲的に笑った。本当にこいつは、いつもいつも余計なもんをたくさん背負い込みやがって。少し会わない間にパンク寸前じゃないか。しんどくなったらまずどうしろと俺は言った?
「……本ッ当にお前はどうしようもない馬鹿だな」
野分がごめんなさいを言ってしまわないうちに間を置かずまくしたてた。
「お前は誰を追い掛けてるって言った!?誰に追いついて、誰を追い越すんだ!?秋彦か?違うだろう?」
野分の目がだんだん見開かれていく。そうだ、もっと俺の言葉を聞け。さっさと目を覚ましてしまえ。
「お前が追い掛けてるのは『俺』だろう!だから俺の傍にいるんだろう?大事なとこ見失ってるんじゃねーよ、ボケ。余所見してる暇があったら秋彦なんかじゃなくって、俺のことだけ見やがれ!!」
一気に言い切ってゼイゼイ言っていると、そっと手に暖かいものが触れた。
「全部、ヒロさんの言うとおりです」
いつのまにか野分が俺の手を握っていた。さっきの甘酒なんかよりずっとその手は暖かく、その声は甘い。
「本当に俺は馬鹿で、こうやってヒロさんに叱ってもらってばっかりです」
つないだ手も、野分の吐息が触れるような耳も、じんじんと痺れるように熱い。
「でも、ヒロさんを好きになってよかった。ヒロさんを好きになった自分のことは、いつまでも誇りに思います」
野分の台詞に顔を上げられずにいると、覗き込むように野分の顔が接近してきた。そのまま視線を伏せるようにすれば、心得たように野分は唇を押し当ててきた。お互いの唇の端から漏れる白い吐息が、怖いくらいに身体の芯を疼かせる。口付けの合間に俺の涙に気付いた野分が、そっと目尻を拭ってくれた。
「泣かないでください」
「別に……、寒さが目にしみただけだ」
そのあともう一回だけついばむようなキスをすると、今度は全身で暖まるようにと家へと急いだ。
「年末はすげー寒かったんだからな」
ベッドで野分の腕に包まれながら口を尖らすと、野分は可笑しそうに言った。
「奇遇ですね。俺もです」
こんなに寒い冬はもう御免だと、腕に力を込めて抱き締められた。
「ッあ……、もうムリだから……」
たまらず俺が悲鳴を上げると、野分が耳元に息を吹き込んできた。
「どっちが?身体ですか、それとも寒い冬が?」
「……両方だよ、バカヤロウ」
じゃあ俺はヒロさんを一生寒がらせないような男になりますね、と野分は妙な新年の誓いを立てて眠りに落ちた。俺はその『一生』という言葉の響きを弄びながら目を閉じた。
*
元旦の朝目を覚ますと、結局正月の用意を何一つしていないことに気付き、二人で通常運転な朝食の支度をした。
「餅くらい買っておきゃよかったな……」
「俺はこうして無事にヒロさんと年が越せるのが何よりですよ」
「日本昔話かっ!!」
もう初詣には行ったので、クリスマスに渡せなかったプレゼントを交換しあったり、年賀状を読んだりしてのんびりと過ごした。(『草間野分様方上條弘樹様』という宛名で二通届いていたので破り捨てた。)
「そういえばヒロさん、実家に帰らなくてよかったんですか?」
「ああ、まあ、そのうちテキトーに帰るから」
お前のことが気になって、この部屋を離れられなかっただなんて言えるはずもなく。一つ伸びをして、ちらりと横目で野分を伺う。
(今年こそこいつを実家にでも連れてってやるかな)
頭をよぎるささやかな目標に苦笑し、野分の肩へ寄り掛かった。
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